教育熱心な父親は100人の優秀な講師に勝る?

子育て

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父親の教育への参加は子どもの将来にどのような影響を与えるか?

今回は父親が子どもの教育に参加する効果と是非についてお話していきたいと思います。

デリケートで賛否の分かれる話ですので、慎重にお話していきたいと思います。

今の時代、ひとり親世帯も多いので、その場合はどのように振舞えば良いかも解説していきたいと思います。

結論から言ってしまえば

子どもにとって父親は『最大の貢献者』にもなり『猛毒』にもなる存在です

父親の教育への参加が良い方向にも働くこともあれば、悪い方に働く場合もあります。

当たり前のように思うかも知れませんが、その振れ幅は大きいため、時として教育には関わらない方が良いケースも存在します。

しかし、正しく関わればその貢献度は非常に大きいため、父親本人含め周囲の人間はその存在意義について自覚的であることが求められるのです。

家庭の中の他人『父親』

小児科医・医学博士の田下昌明先生は自身の著書『安心の子育て塾』にてこう書かれています。

母性愛とはDNAにプログラミングされ、ホルモンの分泌によって加速されている、つまり生物学的に自然発生するものであり、その愛は「無条件」「無制限」のものである。
一方、父性愛というものはDNAには書かれていないので、そのようには発生しません。
父性愛は「今、目の前にいる子は自分の子である」ということを納得するところから出発する、すなわち社会的、後天的に発生するものです。

非常に残念な話ではありますが、実際にお腹を痛めて出産した母親と異なり、父親はわが子であるという確証を99.9999%までしか得られないのです。

父性愛は純度100%の母性愛と異なり、わが子という認識の中に、わずかながら他人として認識している部分が存在します。

そのため、言ってしまえば父親は母親とは異なり、他人の部分を有する家族となるのです。

田下先生のお話は父親視点ですが、子ども視点ではこの違いはより顕著でしょう。

最もか弱かった時期に庇護してくれた母親と異なり、父親はどうしても関わる時間が後になってしまいます。

そのため、関係構築が遅れ、結果望まない関係性に陥ってしまう父子関係が少なくありません。

関係構築のため、父親は同じ時間を共有することをかなり意識していないといけません。

母と子、そして父から社会へ

『安心の子育て塾』より引用・作成

田下昌明先生は著書の中で以上のような図を用いて説明されています。

この図の通り、「母と子の世界」で囲われ、父はその外にいる存在です。歳をとるにつれ、徐々に子どもは母離れし、最終的には社会という「家庭」の外に出ます。

父親という存在は、この家庭から出る前に出会う最初の他人、家庭の中の他人なのです。

子どもはまず最初、父親を介して「社会」を知ります。

この経験をしっかり積むことがより「社会」に適応した人格形成に必要なのです。

逆に母親とばかり接しているとこの経験を積むことができません。

父親がいない場合は、親類を介してこの社会性は身に着けられます。ちなみにおばあちゃんよりおじいちゃんの方が良いです。

保育園に通うようになり、小学校まで進学すればこの社会性は自然と身についていくものになります。しかし、幼いころに段階を踏んであげた方がよりスムーズな移行ができます。

他人と接することを避けさせ、過保護に育てると成長の機会を奪ってしまい、子どもは社会とのかかわり方を知らずに社会に交わることになります。その結果、最初の一歩を踏み外し、コミュニケーションが苦手な子どもを作ってしまう場合もあります。

赤ちゃんがなんでも舐めてしまうのは、免疫獲得のためだとも言います。

家族と同じ浴槽に浸かることで、免疫を共有できる事例もあります。

なんでも清潔・無菌状態にしてしまうのはかえって子どものためにならないのかも知れません。

(ただし虫歯菌については共有しないようスプーンや箸の使いまわしは避けるべきだと私は思います)

ウィリアムズ姉妹の成功例

ウィル・スミスが司会者をビンタして話題を呼んだアカデミー賞授賞式がありましたが、受賞することになった作品「ドリームプラン(原題:King Richard)」は貧しい家庭に生まれた姉妹がテニス経験皆無の父親の奮闘により2人とも世界の頂点に立つというお話です。

実話を忠実に再現しているという前評判に違わず、主人公である父親リチャードの人間像はかなり複雑です。

雨の日も子どもにテニスの練習をさせたり、コーチの指示より自分の指示を優先させたり、試合に参加させなかったり、テニスだけでなく勉強もしっかりやらせたりと一般的に考えられている一流テニスプレーヤーの育成方法とはかなり違った独自の価値観を持っています。

そのあり方が周囲との軋轢を生み、時として家族同士で対立してしまうこともありますが、最後は娘たちを世界の頂点に立たせることに成功します。

決して恵まれた環境ではありませんでしたが、1人の父親の執念が生んだサクセスストーリーです。

「押し付けたり、追い込んだり、叩き込んだりしない」リチャードの教育方針でしたが、その教育はスパルタそのものでした。しかし、それを支えたのは妻の存在であり、リチャード自身の身を張った教育でした。

この話は別の機会に改めて深堀しますが、ここでは父親自身が口だけではなく体を張って教育に参加することの有効性について注目したいと思います。

父親が一切関わらないで教育が成功した例

子ども4人を東京大学理科三類に合格させた佐藤亮子さんはその対極的存在でした。

佐藤亮子さんの子育ては

父親に子育てについて一切口出しさせない

というものでした。

佐藤亮子さんのご主人は弁護士で、当然勉強法については一家言を持っているはずでした。

しかし、佐藤亮子さんは「私が全責任を持つから一切口出ししないで」と夫に伝え、夫はそれを忠実に遂行しました。

これには2つの理由があると思います。まず1つ目は、子育てを分業としてとらえた時、夫に不満が噴出してしまうので、自分の仕事と捉え、一切の協力を期待しないことで精神衛生を保つことができたというものです。

もう1つは子どもたちへの配慮です。

例えば、あなたがサッカーの練習をしていたとします。

サッカーが上手になるため、日々練習を重ねていましたが、なかなか上達しません。そんなあなたをそばで見守り、支えてくれた存在がいたとしましょう。

その存在に「こうしたらどう?」とアドバイスされたら、きっとそのアドバイスもある程度素直に受け止められるはずです。

しがし、逆に普段の練習を一切見ず、試合の結果だけ聞いて練習方法をアドバイスしてくる他人がいたらどうでしょうか?

きっと、そのアドバイスは素直に受け取れないでしょう。

「なんだよ、何もしらないくせに」「普段の自分の頑張りも見てないくせに」

そんなマイナスの感情が生まれないでしょうか?

更にもし試合に勝って、世間から賞賛されるようになったとして、普段から見守っていてくれる存在から「おめでとう!できるって信じていたよ」と言われるのと、普段は全く見向きもしてくれなかった人から勝った時だけ褒められるのでは受け取り方が全く違いませんでしょうか?

これが父親の関与がマイナスに働いてしまうケースになります。

先ほどの父親リチャードとの違いは、普段から時間を共有し苦楽を共にしているかどうかです。

普段からお世話になっている人の言葉は重さが違います。

「何やっているんだ!お前はそんなことする奴じゃないだろ!」と、厳しい言葉をかけられてもそれがお世話になっている人なら非難ではなく、愛の鞭として相手に響きます。

「そして父になる」という映画の中で、リリー・フランキーが演じる父親役の言った言葉が印象的です。

「時間だよ。子どもは時間」というセリフがあります。これは金言だと思います。

同じ時間や空間を共有していない人間の言葉ほど空虚に感じるものはありません。過ごした時間の数だけ父親の存在や言葉の重みが増し、逆に離れた時間だけ存在も言葉の重みも減ってしまうのです。

父親の教育への関与は絶大な効果を生むことがある一方、中途半端な関与はかえってマイナスの効果を生んでしまうかも知れないのです。

神童を育て上げる父親たち

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは18世紀のヨーロッパの宮廷を沸かせた。わずか6歳で、しばし姉のマリーア・アンナをともなって上流階級の人々をピアノで楽しませていた。モーツァルトは5歳でバイオリンとピアノのための曲を書き始め、10歳までにさまざまな作品を生み出した。

モーツァルトの父親はもちろんレオポルト・モーツァルトだが、彼も有名な作曲家であり演奏家であった。また高圧的な父親であり、息子が3歳の時から作曲と演奏を徹底的に叩き込み始めた。レオポルトが幼いヴォルガングの師として適任だったのは、レオポルト本人がすぐれていたせいだけではない。彼は子どもへの音楽教授法について、とても興味を持っていたのだ。

レオポルトは音楽家としてそこそこでしかなかったが、教育者としては極めて優れていた。彼の決定版バイオリン教本は、ヴォルフガングが誕生した年に出版されてから何十年にもわたって影響力のある教本となった。だから、ヴォルフガングはほんの幼いうちから住みこみの専門家に厳しい指導を受けていたと言える。(中略)

スポーツ界の神童に目を転じても、似たような事実が見えてくる。

タイガー・ウッズが1988年に僅差でマスターズ最年少優勝者になったとき、多くの専門家は、もっとも天賦の才に恵まれたゴルファーだと称賛した。(中略)

そしてやはりこの場合も、はじまりは強い動機を持った父親の存在だった。

アール・ウッズは野球経験者で、元陸軍特殊部隊員だった。彼は練習が優秀さを作ると確信していた。息子が歩いたり話したりするようになる前に、「思いもよらないほど幼い歳」から教育を始めたという。(中略)

幼いタイガーは、父親がゴルフボールをネットに打ち込む様子が見えるように、自宅のガレージで子ども専用椅子に座らされ、クリスマスにはゴルフクラブを与えられた(1歳の誕生日を迎える5日前のことだった)そして18か月で初めて屋外ゴルフをした。まだ5つまで数えられなかったのに、幼いタイガーはすでにパー5とパー4の違いをわかっていた。

2歳8か月にして、タイガーはバンカーの抜け方を熟知していたし、3歳になったときにはプレショットルーティンを確立していた。練習の場はまもなく打ちっぱなし練習場とグリーンへ移り、何時間もかけてそこで技術を磨くようになった。

タイガーは2歳のとき、サイプレスのネイビゴルフコースで開かれたミニゴルフトーナメントに初めて出場した。このときには、すでに2~5番ウッドで80ヤードの飛距離を出し、40ヤードの距離から正確なショットを放てるようになっていた。4歳になると、アールは専門のインストラクターを雇って息子の上達にさらに拍車をかけてやった。タイガーが初の全国規模のトーナメントで勝利を飾ったのは13歳の時だ。(「才能の科学」マシュー・サイド より抜粋)

天性の感覚を持っていなければ成功できないと思われている音楽とスポーツ。

もちろん天性の優位性もあったのでしょうが、彼らの成功の背景には父親の存在がありました。

面白い話ですが、現代まで見ても、成功者の陰には父親たちが存在し、その割合は母親より多く感じます。

もちろん、母親の存在も大きかったのでしょうが、飛躍するには父親の持つ父性愛・他人性が必要なのかも知れません。

この父親たちの共通点は「自分で教えた」ところです。

アール・ウッズもウィリアムズ姉妹の父リチャードも、そのスポーツの専門家ではありませんでした。

またレオポルト・モーツァルトも優れた指導者ではありましたが、音楽家としての評価は高くありませんでした。

このように父親たちは「自分の良く知らないもの」でも教え、同時に自分でも学び、同じ時間を共有し続けたのです。

父性愛・父親の教育の再現性について(結論)

ここまで父親の教育への関与がどのような成功を生み、またどのような失敗を生み出す恐れがあるのかをお話してきました。

しかし、現代を生きる我々が子どもと多くの時間を共有することは容易ではありません。まず仕事をしなければ生きていけないのですから当然です。

先の佐藤亮子さんの例にしても、専業主婦という立場でなければできないような子育てであることも事実です。

また繰り返しになりますが現代は3組に1組がひとり親家庭であり、母親が1人2役を担わなければならないという離れ業を要求してくる社会でもあります。

ここで1つ確認しておきたいのは再現したい2つのうち1つは再現性が極めて低いということです。

その1つとは、子どもに付きっ切りでコーチングし、寝食を共にし日々を共有できる存在は親という立場を置いてほかにないということです。

もし学業という分野で専属の家庭教師を雇い、わが子に深い愛情をもって24時間365日指導にあたらせることができるかということを考えれば答えは自明です。

残念ながら親にしかできないことがこの世には存在し、他人には担えないことです。

しかし、2つのうち1つ、今他人と言ったように父性愛の他人性については再現性の余地があります。

それは縦のつながりのある集団に属したり、師を持つことで再現できます。

中世の西洋ではある年齢になった男子には少し年上の男性が師として育てる方法が存在しました。

その年上の男性に男子は勉学に限らず生活の知恵、様々な手ほどきを受けます。この教育法の優れている点は、少し年上の同性による指導であるという点です。当然男性の方も同じくらいの年齢の時に感じた悩みや経験を覚えており、実体験を交えながら教えられます。

また他人であることからそのアドバイスは思慮に富んでいるわけでもなく、粗野ですらあることがあります。しかし、それが良い刺激になるのです。

兄弟がいた時、下の子どもの方が先人の過程から学べるという点において優位性があります。3匹の子豚は長男と次男がオオカミに襲われたことから教訓を得てレンガの家を作りました。

学校や学習塾においても縦のつながりは貴重です。先輩たちがどうしているのかを当事者になる前に知ることができるという点で縦のつながりは有効です。

学習塾でも受験生たちが必死になって勉強している姿を見て、自分らがどうするべきか早い段階で学ぶことができます。

毎日長時間自習する浪人生の隣で小学生が一緒になって勉強している光景に感動を覚えることもあります。

これが個別指導にはない集団指導ならではの縦のつながりなのだと思います。

まとめになりますが、父性愛の持つ他人性はより多くの師と仰げる他人と接することで代替が効きます。

我々塾講師もその一端を担えればと思います。しかし、尊敬なき師弟関係ほど空虚なものはありません。こちらの言葉に重みが生まれるよう我々講師も子どもたちとより多くの時間を共有し、彼ら彼女らの信に足る存在になれるよう努力が欠かせません。

また親としては孟母三遷の教えに倣い、環境の提供に意識を割くことが求めらるのではないでしょうか。

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