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子育ての「V」とは?
今回は99%の親が間違えている子育ての「V」についてお話ししていきたいと思います。
この話を聞けば成長していくお子さんに親としてどう接すれば良いのかがわかります。
この記事は心理学者のシルヴィア・リム氏の著書を参考に執筆しています。
皆さんは子供の頃こういう経験をしたことはありませんか?
「夢を持ちなさい」
「自分のやりたいことをやりなさい」
「可能性を広げなさい」
親や教師にそう言われたことは1度は誰しもあるはずです。
今度は子どものいる人に聞きます。
あなたの子どもがいたずらをして、何かものを壊してしまったり、人に迷惑をかけたとして。
それを「まぁ、子どものやることだし」とか「可愛いから何しても許せちゃう」と思って無理に叱らなかった経験がありませんか?
今述べたことは、ほぼ全ての人に経験があると思います。
私自身、両方に該当します笑
子どものやったことなら、それが自分の子どもでなくても許せてしまいます。
しかし、これをシルヴィア・リム氏は大きな間違いだと指摘しています。
子どもは幼い頃、天使のような笑顔であなたに微笑みかけてくれます。
あなたなしでは生きられず、ストレートに愛情を表現してくる我が子は、何よりも尊い存在です。
その天使が部屋を汚したり、あなたを叩いたり、大切な皿を割っても怒る気がしないのは仕方のないことかもしれません。
こんな可愛い子を叱ることなんてできない!
愛情深い母親はそう言います。
その気持ちは大いにわかります。
子どもの頃、大人は言います。
「夢をみなさい」
「夢を追いかけなさい」
そして子どもが大きくなったとき、大人は一転してこう言います。
「現実を見なさい」
「いつまでも夢を見ているんじゃない」
全く逆のことを大人は子どもに言い出すのです。
最初は手放しで我が子の無法を寛容していた親も、子どもが大きくなるにつれ鬼の表情に変わります。
この変化に子どもたちは困惑します。
「なんでママこの前まで許してくれたことを許してくれなくなったんだろう?」
よくあるパターンで子どもが大きくなるにつれて、親が管理を強めることがあります。
子どもと社会の接点が増えるにつれ、家の中で許せていたことが許せなくなります。
我が子の奔放が衆目に触れることを恐れ、恥じます。
その時、親は寛容の仮面を脱ぎ去り、子どもを厳しく管理します。
しかし、これは本来逆なのです。
タイトルの子育てのVの逆をいっている家庭が多いのです。
Vが何を指しているのかというと、親の子への干渉を表しています。
理想の子育てとは「V」の字のようであれというシルヴィア・リム氏は言います。
まず、子どもが幼い頃。
子どもは自己判断ができないため、親は子どもの行動を著しく制限します。
見知らぬ人に声をかけられてもついて行かないように躾けられ、一人で外出する事をなかなか認めてもらえません。
駐車場を歩く時は手を繋いで自由に歩けなくしますし、火を扱う時は可能な限り遠ざけます。
危ない目に遭わないよう、細心の注意をはらい我が子の安全に努めます。
そして子どもが大きくなるにつれ、その管理はなりを潜め、子どもの行動範囲は広がります。
駐車場は自分の足で歩き、たまには料理を手伝えと言われます。
さらに大きくなったら、毎日、家の外に出かけ、見知らぬ人とも積極的にコミュニケーションを取ります。
これが本来子育てであるべき姿。「V」の字です。
最初は狭かった行動範囲が、長じるにつれ徐々にひらけていく様です。
その様がアルファベットのVに似ているのでシルヴィア・リムはこれを「愛情のV」と呼びます。
間違ったことをしたら、どんなに可愛い我が子でも厳しく叱り、躾け。
逆に大きくなってきたら、我が子を信頼し、任せます。
しかし、現実における子育ての大部分がこれと逆になってしまっていることが問題だとシルヴィア・リムは言います。
これがいき過ぎた状態が過保護です。
なんでも親が心配して先回りする。
子どもの口から語らせず、親が代弁する。
子どもが悪いことをしても常に庇い、子どもの成長機会を奪ってしまう。
この全てを謝りだと断じてしまうのは酷だと思いますが、あえて子どもに失敗を挫折をさせ、学ぶ機会を与えてあげることも子育てでは大切です。
以前、「息子をダメにする母親の特徴はなにか?」というブログを書きましたが、この愛情のVは男の子に特に弊害として顕在化することが多いです。不思議なのですが、母親は娘には厳しくできるのに息子になると途端に大甘になってしまう傾向があります。
花まる学習会代表の高浜正伸先生が以前子育てについて語られている際、こんな話をしていたことを覚えています。
「世界を支配しているとも言われるユダヤ人の子育てで、ユダヤ人の父親は子どもが12歳になるとキャンプに連れ出してこんな話をするそうです。『お前はもう大きくなったから子ども扱いしない』という態度で焚き火を囲みながら色々な大人の話をするそうです。その会話は親と子どもの会話というよりは対等な存在として扱っている会話で、そういう扱いを受けた子どもは『ああ、自分は大人の仲間入りしたんだな』と実感し、急に成長するそうです。」
世界で数々の成功を収めるユダヤ人の子育ての話の中にはかなりいき過ぎたように感じる話もありますが、この話はなかなか参考になります。
(マーヴィン・トケイヤー著「ユダヤ商法」に書いてあったいき過ぎた子育ての話:幼い我が子が少し高い台に登っています。近くにいる親は両手を広げ、胸で受け止める仕草をします。子どもは親が受け止めてくれると思い、思い切って高いところから飛び降ります。しかし、親はその瞬間、さっと身を引き、受け手を失った子どもは地面に激突し大泣きします。そしてすかさず親はこう言います「親でも裏切ることがある。人を信じ過ぎてはいけないよ」この経験を通して子どもは一番信じられる存在ですら、盲信してはいけないということを学ぶそうです。なんというか、すごい話です。万が一を考えたら絶対できないことですし、トラウマになってしまうかもしれません。絶対真似してはいけないと私は考えていますが、世界を牛耳る人間に育つには千尋の谷に突き落とすライオンが如くあるべきなのでしょうか・・・)
ユダヤの教育でははっきりと「幼いうちは厳しく躾けよ。逆に大きくなったら口を出すな」と言っています。
しばし、子どもの自主性という言葉を耳にしますが、これには大きな落とし穴があります。
子どもが未熟で自身の中に判断材料を持っていない時は厳しく管理し、自分の中で判断材料が揃ってきたら今度は子ども自身に任せると良いとシルヴィア・リムは提唱しております。